お知らせ

水がめをそこに置いたまま。ヨハネの福音書4章から

2025年03月02日

ハレルヤ!みなさん、いかがお過ごしでしょうか?今日は3月2日、月初めの主日礼拝です。3月は四旬節の時期で、復活祭も控えています。この期間はイエス・キリストを深く知る素晴らしいチャンスです。私たちクリスチャンにとって、クリスマスに次ぐ大切な時間ですね。

今日は教会で、ヨハネの福音書4章を取り上げ、「水がめをそこに置いたまま」というタイトルで説教がありました。この章は、イエス様とサマリヤの女性との対話が描かれた、とても特別な部分です。

イエス様はその女性に「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言いました(ヨハネ4章16節)。ここでの「夫」とは彼女が実際に同棲している夫ともとれますが、深い意味を込めるなら、彼女が心の中で神のように愛していた他のものを指しているとも考えられます。聖書では、神以外のものを神のように愛することを「偶像崇拝」と呼びます。それは、真の神を本当の「夫」として愛さず、代わりに他のものに愛と信頼を注ぐことです。

聖書の別の箇所、例えばローマ書1章でも、人間は創造主である神を捨てて他のものを崇拝する欲求があると指摘しています。偽りのものを本物だと信じることは、真実ではありません。このことが示すのは、本来、神が人間にとって絶対に必要な存在であり、神なしでは満たされないということです。だからこそ真の神を失った私たち人間は、絶えず他のものを神のように信頼し愛し、求めて彷徨うのです。これが偶像崇拝です。しかし、完全に信頼し愛することができる存在は、聖書に登場する神だけしかありません。

ところで偶像とは、木や石で作られた像だけではありません。私たちは無意識に、何でも偶像にしてしまいます。ある神学者は「人間は偶像工場だ」と言いました。つまり、神ではないものに神のような愛と信頼を注ぐ対象を、いくらでも人間は作ってしまうということです。

イエス様がサマリヤ女性に言った「夫」という言葉が、これでもっと深く理解できるようになります。彼女が持っていたという5人の夫は、神のように愛した5つの対象を示していますが、どれも彼女の心の渇きを癒すことはできませんでした。だからこそ、彼女は心の中で枯れ果てていたのです。

エレミヤ書2章13節にはこんな言葉があります:

「わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」

サマリヤ女性も同じように、真の神である「いのちの泉」を捨てて、壊れた水ためを神のように信じてしまったのです。偶像にどれだけ愛と献身を注いでも、霊的な満足を得ることはできません。真の神だけが私たちの真の「夫」になれるのです。

イエス様は、神を捨てた私たちに真の神を教えてくださる救い主です。イエス様を通じて、私たちは神を知り、神と出会うことができます。四旬節は、イエス様をより深く知る大切な時です。ぜひ皆さんも、イエス・キリストを通じて得られる豊かな恵みを感じてくださいね。



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