2026年07月05日
ハレルヤ!主の御名を讃えます。
7月5日、愛知長老教会は7月最初の主日礼拝をささげました。説教はヤコブの手紙2章14-26節から、「行いのない信仰は、死んでいるのです」と題した御言葉が取り次がれました。説教では、救いは神の恵みによる信仰によって与えられる一方、その信仰は必ず愛の行いとなって現れ、実を結ぶという、福音の完成された姿について語られました。
1. 信仰は、受けた愛を行動として表す
ヤコブは、信仰があると口で告白しても、そこに行いが伴わなければ何の益にもならないと語ります。私たちはキリストの十字架の憐れみによって救われ、その愛を受けた者です。その恵みは自分だけの特権ではなく、隣人への愛として流れ出るべきものです。福音は律法による強制ではなく、主に愛された者の内側に生まれる愛の衝動によって、自然と行動へと結びついていきます。真の信仰は、十字架の愛を受けた者が、その愛を隣人へと分かち合う歩みの中で具体的に現されていくのです。
2. 生きた信仰は、日々の実践によって成熟する
ヤコブは、困っている兄弟姉妹に言葉だけをかけても、必要を満たさなければ意味がないと教えます。また、「神を信じている」という知識だけでは十分ではなく、悪霊でさえ神の存在を知っています。聖書が語る信仰とは、神との人格的な交わりから生まれ、日々の生活の中で実践される信仰です。その歩みを通して、信仰は成熟し、神が望まれる豊かな実を結ぶものへと成長していきます。ですから信仰とは知識や感動で終わるものではなく、愛の実践を積み重ねる中で完成へと導かれていくものです。
3. 行いは、信仰の真実さを証しする
アブラハムはイサクを献げる従順によって、ラハブは命を懸けて神の民を守る行動によって、その信仰の真実を証ししました。救いは信仰による神の恵みですが、その信仰が本物であることは、人生を通して現れる従順と愛の行いによって示されます。ヤコブは「行いのない信仰は死んだもの」と結論づけ、生きた信仰は必ず実を結ぶことを力強く教えています。
私たちは、「ただ信仰、ただ恵によって救われる」という「純粋な福音」と、「その信仰は必ず行いとして現れ、完成する」という「完全な福音」の両方を受け取る必要があります。恵みによって救われた者は、その恵みを日々の生活の中で実践し、主の愛を人生をかけて証しする者へと造り変えられていきます。信仰者はこの完全な福音に立ち、愛と従順の実を豊かに結ぶ者として歩み続けることが求められているのです。
参照|ヤコブの手紙2章14-26節 【新改訳聖書第3版より】
14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
20 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。
22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、
23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
24 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
25 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。
26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
