メッセージ

エマオ途上の二人の弟子。


ルカの福音書24章28-31節
” 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。”(抜粋:新改訳聖書第三版)

イエス・キリストが十字架で死なれたその三日後、エマオへ向かう途上に、二人の弟子がいました。彼らは夢と期待を抱いて、イエス様と宣教した弟子たちでした。しかしイエス様の十字架の死を前に、夢は破れ、全てを諦めて、帰郷の途に歩いていたのです。そんな悲しみと絶望の道中、なんとイエス様が近づかれ、二人に同行した…と記録されています。イエス様は道々、聖書をお話になられ、ご自分の死の意味を、この二人に解き明かしておられます。でも不思議なことがありました。それは同行されたイエス様を、二人の弟子は「あのイエス様」だと気づかなかったのです。「二人の目はさえぎられていた」というのが、聖書の示す理由です。復活されたイエスを分からず「さえぎられていた」という二人の状況からは、意味深いメッセージを感じずにはいられません。もし教会が、この二人のように「さえぎられていた…」としたら。イエス・キリストの福音を力強く語ることなど、決してできないでしょう。

そんな二人のために、イエス様はご自分の死の意味を聖書から教え、そして示されました。聖書の言葉は、救いに満ちた神の約束です。聖書を通して、主の十字架の死が、罪人に救いをもたらす死であったことを伝えられたでしょう。その時、彼らの心にはっきりと「勝利としての十字架の死」が見えてきたはずです。イエス・キリストの十字架、それは罪と死に打ち勝った勝利です。それは人類を救おうとされる神様の御業であり、古より人類に語られた約束の成就でした。ご自分の命を無にされたイエス様は、神の御救いの御業を成就されました。主の十字架の死は尊い犠牲であり、神の限りない愛の確証です。イエス様の教えを聞いた彼らの心は、熱くなりました。

イエス・キリストの福音は、心で信じて口で告白し、救いへ至らせる神の力なのです。私たち罪人の心を照らす光、そして永遠の命へ熱く歩ませる光です。イエス様の死の意味を悟り始めた弟子たちの前で、パンが裂かれるその瞬間、彼らは復活の主イエスを初めて見ることができたのです。今日の私たちの希望も、主イエスの十字架の死とそして復活にあるのです。

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